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久留里城 外郭(君津市)大手門跡より

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写真: 久留里城 外郭(君津市)大手門跡より

写真: 久留里城 外郭(君津市)大手門跡 写真: 久留里城 外郭(君津市)大手門跡

18.03.14.
別称、雨城
築城年、康正2(1456)年
築城主、武田信長
城主、上総武田氏、里見氏、後北条氏、大須賀忠政、土屋忠直、黒田氏
改修者、里見義堯、黒田直純
標高145.3m/比高m
廃城年、明治5(1872)年
遺構、土塁・堀切・郭

(→君津市HP)久留里城は別名「雨城」(うじょう)と呼ばれています。「城の完成後、3日に一度、21回雨が降った」とか「この山にはよく霧がかかり、遠くから見ると雨が降っているように見え、城の姿が隠し覆われ敵の攻撃を受けにくかった」ともいわれています。
 久留里城の起源については「平安時代中期の猛将平将門の三男、東少輔頼胤が初めてこの地に砦を構えた」と伝えられていますが、確証はなく伝説と考えられています。 以後、明治4年秋に廃城されるまで中世には里見氏、近世には黒田氏をはじめ数々の城主の居城となってきました。
 久留里城の復元は旧上総町のころに明治百年事業として計画され、地元はもとより多くの市民から待ち望まれていました。そして昭和53年に天守閣が完成し、約100年ぶりに久留里の丘陵に城が再建され、翌年には久留里城址資料館も完成しました。
 天守閣は、城山公園の本丸跡の隣りに築城され、鉄筋コンクリートの2層3階建て、延べ面積は約190平方メートル、高さは15mあります。 石垣は、安山岩を2mの高さに積み四方にまわし、外壁は昔の城と同じように、白の漆喰壁と南京下見板風につくられています。
 久留里城は、房総半島の中・近世城郭の代表格として、また周囲に残る数々の遺構は貴重な資料として、往時の面影を今に伝えています。(←)

(→wiki)久留里城は室町時代に上総武田氏の武田信長によって築かれた山城(古久留里城)で、以降は信長の子孫である真里谷氏が支配した。戦国時代には真里谷氏は衰え、代わって里見氏の拠る所となり、里見氏によって再構築され(新久留里城)、佐貫城と共に対北条氏の最前線を担った。その後、江戸時代には久留里藩の藩庁として再整備され、酒井氏の加増地となった17世紀末から18世紀半ばを除いて、近世城郭として明治維新まで維持された。

久留里城は現在本丸のある近世城郭部に加え、安住原地区、怒田遺跡および山麓小櫃川河畔の近世居館部の4つの郭群からなる。この内、江戸時代には近世城郭部と近世居館部のみが城域として維持されたが、安住原地区については真里谷氏時代の遺構であり、里見氏時代には既に放棄されていたと考えられている。ただし、安住原地区は里見氏時代も引き続き使用されたと考える向きも多い。

山麓の近世居館部は一部の土塁を除き開発により消滅したが、車道で一部が削られたものの山上の遺構は比較的よく残り、天守台等の近世遺構に加え、堀切や削り残し土塁等の中世里見氏時代の遺構も見られる。また、山上は湧水が豊富で、男井戸・女井戸、お玉が池を始めとする、複数の水源が現在でも水を湛えている。(wiki←)

参考「余湖くんのHP」様→ http://yogokun.my.coocan.jp/kururijou.htm

巡回マップ→ https://drive.google.com/open?id=14zVB7XrB0PEC_mRyP1GxYJ_VHRU&usp=sharing

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