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野田城(新城市)伝 信玄公狙撃場所

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写真: 野田城(新城市)伝 信玄公狙撃場所

写真: 野田城(新城市)本郭 写真: 野田城(新城市)城址碑

●mixiコメント――2016年05月31日 15:10
西上作戦( `´)σビッ──
元亀3(1572)年9月29日、信玄は山県昌景と秋山虎繁に3000(5000?)の兵力を預け、三河へ侵攻させた。
(秋山虎繁は東濃へ、という説。否定説濃厚。)
10月3日、信玄も2万2000(2万5000?)の兵を率いて甲府を出発。
(兵力のうち2000は後北条氏援軍。)
10月10日、青崩峠(もしくは兵越峠)を越え、遠江へ侵攻。
北遠江の有力国人、天野氏が道案内を務める。(ここで武田氏へ降った、という説の存在は、元亀2年の出来事が天正期の年代比定の誤りという議論の証左……??)
13日、信玄は本隊を2隊に分ける。5000を馬場信春に預け、只来(ただらい)城を攻略のち二俣城へ進軍するよう指示。
信玄本隊1万7000は、天方(あまがた)城・一宮城・飯田城・挌和城(読み不明。格和城と記している人も)・向笠(むかさ)城など北遠江諸城を1日で攻略。信玄本隊も二俣城へ進軍する。

14日、浜松城北の要衝 二俣城は、浜松城の支城である掛川城・高天神城とを結ぶ遠江国支配の要所。これを奪われることは阻止したい徳川家康は、本多忠勝・内藤信成3000を偵察に先行させ、自身も3000の軍勢を率いて出陣、天竜川を渡河した。
(家康が遠江国で動員できる兵力は8000。他は三河防衛。信長は畿内での圧力のため家康へ援助なし。また、家康は馬場隊の進軍速度を、山県隊の進軍方向を読み誤っていた。)
本多・内藤の斥候隊が馬場信春隊と遭遇。斥候隊は即座に退却を開始するも、馬場隊は素早く徳川軍を追撃、太田川の支流 三箇野川や一言坂で戦闘となった。
本多忠勝が殿を務め、辛くも撤退を成功させる。
※一言坂合戦wiki→ https://ja.wikipedia.org/wiki/%E4%B8%80%E8%A8%80%E5%9D%82%E3%81%AE%E6%88%A6%E3%81%84
※小杉左近wiki→ https://ja.wikipedia.org/wiki/%E5%B0%8F%E6%9D%89%E5%B7%A6%E8%BF%91
「家康に過ぎたるものが二つあり 唐の頭に本多平八」

15日、信玄本隊は匂坂(さぎさか)城を攻略。
16日、二俣城を包囲。二俣城は天竜川と二俣川が合流する地点の丘陵上に築かれており、この川が天然の堀を成す堅城。城将は中根正照、副将は青木貞治、籠城兵1200。一方武田軍は馬場信春隊が合流し2万2000。
18日、中根正照は降伏勧告を拒絶、信玄は攻撃を開始。中根は家康・信長の救援を信じ、徹底抗戦。

山県昌景隊は三河で山家三方衆を加えて(これで5000?)浜松城へ向かう。長篠城より南下、三河国八名郡の柿本城(鈴木重好居城)、次いで支城の小屋山城を攻略。遠江国へ移り、伊平城を落とし、浜松城に圧力をかけるように進軍。
11月初め、信玄本隊と合流する。
(参陣したのは田峯城主 菅沼定忠、作手城奥平貞勝代理 奥平貞能、長篠城菅沼正貞代理 菅沼満直。)

12月、二俣城の水の手を断つことを見出しこれに成功。
19日、再度の降伏勧告により中根正照は開城し、浜松へ落ちた。
(11月末、武田軍が二俣城を囲んだという報せを聞いた信長は、すぐに佐久間信盛・平手汎秀・水野信元らを派兵するが、到着時には落城していた。(同じ史料に信玄は堀江城攻略中だったとあるようだが、進軍中の間違いだろう。)
二俣城落城の報せに、遠江の日和見国人衆(飯尾氏・神尾氏・奥山氏・天野氏・貫名氏など)はことごとく武田氏の傘下へ入った。
※二俣城合戦wiki→ https://ja.wikipedia.org/wiki/%E4%BA%8C%E4%BF%A3%E5%9F%8E%E3%81%AE%E6%88%A6%E3%81%84

12月22日、二俣城より浜松城へと進軍を開始した信玄だが、浜松城の堅城さ、信長の援軍規模(兵数諸説。佐久間右衛門尉信盛・平手甚左衛門汎秀・水野下野守信元など)から、攻城戦を避ける方策を採る。上洛を目的とし、信長との合戦が視野にあり、兵力・兵糧の減少、長期の対陣──滞陣を嫌った。
家康は浜松城で籠城戦に備える。
遠州平野部(浜松城の北1里半ほど)を行軍、浜名湖東に突き出た庄内半島に建つ堀江城(現 西区舘山寺町)へ向かうような進路をとり、浜松城を素通り“した”。
これを知った短気短絡だった家康は、家臣の反対を押し切って野戦へと飛び出す。まんまと信玄の策にのった。
同日夕刻、三方ヶ原台地に到着すると、魚鱗の陣を布いた武田軍が待ち構えている。徳川軍は急いで鶴翼の陣をとるが、即刻火蓋が切られた。
兵力の多寡はあったが、わずか2時間の戦闘で信長家臣 平手汎秀、家康家臣 中根正照・青木貞治・石川正俊・小笠原安次・小笠原安広(安次長男)・本多忠真・米津政信・大久保忠寄・鳥居忠広ら2000が討ち死する。
家康は山県昌景の猛攻を受けて退却。家臣 夏目吉信が殿・身代わりとなって時間を稼いでいる間に浜松城へ懸命に遁走し、落ち延びた。(よく知られる脱糞説は出典元が判明していない。類似した話が一言坂合戦にはある。)
(山県昌景は浜松城まで家康を追ってきたが、空城計を警戒して引き上げている。)
武田軍の圧倒的な勝利に終わった。武田軍の死者はわずか200人。
※三方ヶ原合戦wiki→ https://ja.wikipedia.org/wiki/%E4%B8%89%E6%96%B9%E3%83%B6%E5%8E%9F%E3%81%AE%E6%88%A6%E3%81%84

三方ヶ原で大勝したにも関わらず、三河への進軍は行われなかった。信玄は遠江国刑部で越年する。(浜松市北区。浜松城の北、堀江城の北東。三河国境まで5里はある。)
進軍速度さえも恐れられていた武田軍。持病発症・悪化(肺結核、胃癌、甲州風土病(日本住血吸虫症)など諸説)。家康警戒。越前朝倉氏の撤兵など諸説あるが、通説となっている重病説が濃厚であろう。

元亀4(1573)年1月3日、進軍再開。しかし、細かく宿泊を重ねながらで、宇利峠から三河へ侵攻した。
1月10日、豊川を渡河、野田城を包囲。
11日、城主 菅沼定盈は信玄の降伏勧告を拒否。野田城攻撃が開始される。野田城は小規模な城であり、城兵はわずか400(300〜500諸説)。しかし攻めあぐねたため、金堀衆に城の地下に通じる井戸を破壊させるという水攻めを行なった。
2月10日、降伏開城。生き残った城兵は解放、菅沼定盈は捕虜となり人質交換となる(奥平貞勝)。

※攻城中のある夜、村松芳休の笛の音に聞き惚れ、本陣を出て城に近付いた所を鳥居三左衛門(鳥居半四郎)の鉄砲に討たれ、重傷を負って……という“伝承”(松平記)。この事件の真否は不詳だが、病状、病死に関する主治医の記録が残っているので、死因は病いであろう。
(このとき使用したと“伝わる”鉄砲が保存されているので、この出来事はもしやあったのかもしれない。しかし“伝えられる”信玄の性格を考えると、そりゃないだろう、と思う。されどそんな事態が本当に起きていたら、軍艦は偽るのだろうか? というね…。ループ。さすが歴史。)

3月、馬場信春を東濃へ侵攻させる。
3月6日、秋山虎繁が岩村城入城。
4月、およそふた月近く、動きのなかった信玄本隊がついに動く。甲斐へ(と言われている)。
信玄の病状に快復の兆しなく、療養を目的に撤退。(と言われている。4月初旬、喀血を繰り返す信玄の様子から、一門衆・近習らの合議により進軍中止となった。)
4月12日、信玄他界。
※森田善明氏は、武田軍の北上は撤退ではなく、当初計画通りの神坂峠からの美濃侵攻であったと唱えている。
※臨終の地点は小山田信茂宛 御宿堅物書状写によれば、三州街道上の信濃国駒場(長野県下伊那郡阿智村)とされているが、浪合や根羽ほか諸説あり、今もって詳らかにならない。荼毘所、埋葬先も諸説……。

天正3(1575)年3月6日、山県昌景が使者となり、高野山成慶院に日牌建立(武田家御日牌帳)。
4月12日、勝頼は恵林寺において信玄三周忌仏事を執り行う(軍艦)。
5月21日、武田勝頼長篠の戦いにおいて織田・徳川連合軍に大敗。
天正4(1576)年4月16日、勝頼は恵林寺で信玄の本葬を行った。

信玄辞世の句──
大ていは
地に任せて
肌骨好し
紅粉を塗らず
自ら風流


※信長援軍は18000〜20000以上。従軍武将の数から3000はあり得ない。
信長は信玄を恐れ、ずっとご機嫌伺いをしていた。信玄の美濃侵攻でも信玄自身と信長自身が直接戦闘に陥らないようにしていた。
西上作戦、遠江三河侵攻が始まるとさすがにもう向き合わずにいられなくなり――

神君家康の大敗を正直に史料に残すわけにはいかなかった。仕方なく負けた理由が必要だった。
多くの史料が3000などと記していない。なのにどうしてそれが通説になってきたのかは不明。信玄軍の数は時代を追うごとに増えていった。

家康は三河を統一、遠江もとった。信長の戦線にも協力し、野戦の達人、などと称され(?)始めた頃。31という若さ。敗戦経験の少なさ。なにより相手が悪かった。

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