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明徳寺(長野市松代町)

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写真: 明徳寺(長野市松代町)

写真: 明徳寺(長野市松代町) 写真: 明徳寺(長野市松代町)

春日虎綱(・高坂昌信・高坂弾正)墓。



mixi記事コピペ――2015年10月08日 13:46
春日虎綱・高坂昌信・高坂弾正――
大永7(1527)〜天正6年5月7日(1578年6月12日)。
改名、源五郎、春日虎綱、香坂虎綱、高坂昌信、昌宣、昌忠、晴昌、晴久
氏族、春日氏、香坂氏(高坂氏)、春日氏
官途名、弾正左衛門尉、弾正忠
渾名、逃げ弾正(戦国三弾正)
戒名、保雲椿公禅定門(成慶院過去帳)、憲徳院玄菴道忠居士
墓所、明徳寺(長野市)、恵林寺(甲州市)
父、春日大隈
養父、香坂宗重
兄、春日熊麿
正室、香坂宗重娘

春日虎綱/高坂昌信(かすがとらつな/こうさかまさのぶ)――
戦国時代の武将。甲斐武田氏家臣。譜代家老衆。武田四天王。
古く「高坂 昌信」の名で知られているが、確実な史書上からは「春日 虎綱」が正確だと考察されている。
「高坂」は信濃国更級郡牧之島(牧野島・牧ノ島)の香坂氏に由来している。永禄年間、一時的に香坂氏の名蹟を継承しており、「昌信」は出家名(しょうしん)と考察されている。
※判物で確認できる香坂姓の名乗りは、永禄2(1559)年11月から永禄6(1563)年6月までで、永禄9(1566)年9月に発簡された判物は春日姓に復している。

大永7(1527)年、甲斐国八代郡石和郷(山梨県笛吹市石和町)の百姓 春日大隅の子として生まれる。
(このとき家に、父に、姓があったのか?)
天文11(1542)年、父死去。こののち姉夫婦と遺産を巡り裁判が行われ、源五郎はこれに敗れ家を失ったという。が、信玄の奥近習として召抱えられる。使い番から始まる。
(????)
天文21(1552)年、100騎持ちの足軽大将となる。春日弾正忠を名乗った。
天文22(1553)年4月、信濃更級郡牧之島 国人、香坂氏が武田家に帰順。
同年、小諸城城代。
弘治4(1558)年、「香坂弾正」を称す(高野山成慶院「武田家過去帳」)。
※春日虎綱が香坂家へ婿養子に入った背景には、虎綱の家格、北信地域・川中島平における政治的・軍事的影響力などが考慮されたと考えられている。(川中島平に影響力をもった国人らが虎綱配下として北信武田領の守備に当たっている。)

永禄2(1559)年、「弾正左衛門尉」から「弾正忠」に改めている。
永禄4(1561)年5月、香坂氏当主 香坂宗重は上杉政虎に内通しているとの嫌疑で誅殺。
(軍艦では婿入り・名跡継承をこのときにしている。)

軍鑑では駿河・遠江・三河への侵攻に参戦したとしている。

元亀4(1573)年4月、信玄死去。このときも以後も海津城代として越後上杉氏の抑えを任されている。

天正3(1575)年5月、長篠合戦。このときも海津城城代をつとめ参戦していない。嫡男 昌澄が戦死。

軍艦は、勝頼は一門の典厩信豊や穴山信君、譜代家臣の跡部勝資、長坂光堅らを重用し、信玄時代の宿老・家老などの旧臣らは疎まれていたとする。
(正否のズレは微妙。)

軍鑑では、虎綱は敗報を聞くと信濃駒場において勝頼を出迎え、衣服・武具などを替えさせ敗軍の見苦しさを感じさせないように体面に配慮し、五箇条の献策を行ったとする逸話を記している。虎綱の献策が事実であるかは検討を要することが指摘されるが、主に相模国の後北条氏との同盟を強化することと、戦死した内藤・山県・馬場らの子弟を奥近習衆として取り立てて家臣団を再編すること、および長篠敗戦の責任を取らせるため、戦場を離脱したとされる親族衆の穴山信君と武田信豊の切腹を申し立てたとしている。
(wikiコピー、アレンジ。赤坂稲荷→ http://photo.mixi.jp/view_album.pl?album_id=500000095704797&owner_id=32815602

天正6(1578)年3月、上杉謙信死去。こののちに起こる家督争い「御館の乱」において、虎綱は典厩信豊とともに上杉景勝との取次を努め、甲越同盟の締結に携わっている。
天正6年6月8日付の北条高広・景広宛上杉景勝書状を最後に史料から消える。6月12日付の書状では信豊が単独になっている。同年10月からは虎綱次男 信達が登場している。
同年6月14日、海津城において死去したとされる。享年52。

虎綱の命日は「乾徳山恵林寺雑本」等では天正6年5月11日。
「甲斐国志」人物部第五では墓所の明徳寺に伝わる5月7日死去。(甲越交渉時期からこの説は整合性がない。)
高野山成慶院「武田家過去帳」では虎綱の命日を「天正6年6月14日巳ノ刻」としている。
「武田御日坏帳」には、同年7月25日に高野山成慶院で虎綱甥 惣二郎が法事を執り行っている。

法名「保雲椿公禅定門」は弘治2年4月21日に定めていた。


長男――高坂源五郎昌澄(昌宣・信秀。天文20(1551)年〜天正3年5月21日(1575年6月29日)。長篠合戦外野、鳶ヶ巣山奇襲隊により昌澄のいた長篠城西岸 有海村も奇襲され戦死。)

次男――春日惣次郎信達(春日昌元・高坂昌元。生誕不明〜天正10年7月13日(1582年8月1日))。昌澄の戦死で家督を継承、また海津城代も引き継いだ。
(wiki→)翌天正7年3月までには海津城代が安倍宗貞に交代し、駿河東端の沼津城代となり北条氏に対処する。
天正10年(1582年)2月から織田信長による甲州征伐が開始されると、昌元は沼津を放棄して本国である甲斐防衛の為に新府城に馳せ参じるが、戦わずして沼津を明け渡した事を勝頼に疑われ海津へと帰される。その後、信長に降伏し武田氏滅亡後に北信濃の領主となった森長可に属した。しかし6月の本能寺の変で信長が死去し、さらに旧武田家臣団による一揆などで森長可が領地を捨てて逃亡しようとすると昌元は信濃国人衆を母体とした一揆勢を率いてその撤退を阻止した。
そこで長可は昌元の息子である森庄助(森姓は長可が烏帽子親の為)をはじめとする人質を使って交渉の席を作り出し、家臣である大塚次右衛門を一揆衆への交渉役として遣わせる。大塚は昌元の裏切りをその席で糾弾するなど終始強気の態度であり、ひとまず松本での人質の開放は約束されたが「森軍には手出しをしない」という条件を飲まされる事となった。しかし一揆衆は納得しておらず猿ヶ馬場峠で長可と戦に及ぶも撃退される。そこで再度、大塚と一揆衆の会談の席が設けられ、大塚は手出し無用の事を強く言明した。しかしながら長可は昌元の裏切りそのものに強く不快感を持っており、松本に着くと約束を反故にし長可自ら庄助を殺すと、森軍は他の人質も悉く殺しそのまま北信濃から撤退していった。
その後、昌元は上杉景勝に属したが同年7月13日、真田昌幸や北条氏直らと内通したことが発覚して、上杉景勝によって誅殺された。これにより、高坂氏嫡流は滅亡した。
さらに慶長5年(1600年)3月、初代川中島藩主として北信濃に入った長可の弟、森忠政によって信濃に残っていた昌元の一族は残らず探し出され18年前に長可の信濃撤退を妨害した罪で一族全員が磔刑に処された。(森家先代実録)(←)

3男――春日源三郎昌定。生没年不詳。天正10(1582)年、海津城落城ののちは城将 小幡弥左衛門尉光盛(山城守。武田五名臣 小畠虎盛の弟)とともに越後へ落ちた。子の昌国は保科正之に300石で仕えている。


(wiki→)虎綱の活躍をはじめ信玄・勝頼期の事績を記している『甲陽軍鑑』は江戸時代の元和年間に成立した軍学書で、『軍鑑』自身の奥書によれば原本は虎綱の口述記録で、長篠合戦の後に武田氏の行く末を危惧した虎綱が勝頼や重臣の跡部勝資・長坂光堅らに対する「諫言の書」として記したという。 虎綱の死後も甥の春日惣次郎と家臣大蔵彦十郎が執筆を継続し、虎綱の海津城代時代の部下である小幡昌盛の子景憲がこれを入手し、完成させたという。

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